ジープ(Jeep)と薪ストーブ(暖炉) 焚き火屋店主、NPO森臨隊代表・菰田晴雄の呑気なウェブログ

ジープと焚き火をこよなく愛する人間の、時に間抜けで時に過激なウェブログです

2017-05-07

思考力低迷状態。

 断酒効果で体調回復傾向だったにも関わらず、4月9日、なぜか突然鬱の底に急落。以来、休養を心がけ、とにかく顧客対応だけはきちんと出来るよう留意していました。
 薪を買い求めに来られるお客さんの笑顔から元気をもらい、お陰様でようやく徐々に体調が回復し始めた感覚です。無理のない範囲で屋外作業も再開しました。
 でもまだ感性は鈍り思考力も行動力も落ちたまま。メイルへの返信に2時間以上も要し、短い駄文作成に日数がかかるようでは・・・う~ん。作業で躰を動かせば、血の巡りが良くなって頭も回るようになるかな?

思考力低迷状態。20170505-01
▲障害木伐採の打診を受け、現地を下見。見事なまでに美しい新緑だが、樹木がたっぷり水を吸い上げている証でもある。旬伐りよりも重く、搬出には苦労しそう。

2017-04-21

区切りの日-残ル半分ノ役目ヲ終ヘマシタ。

 高知で父が息を引き取ったのは、昨年8月10日。四十九日となる9月27日に法要と納骨を予定していたが、私の体調不良で先送りにしていた。
 父の容態急変の報を受け埼玉-高知-埼玉を2泊4日で強行し呼吸している父に会えたは良いとしても、己の老いを無視した長距離長時間運転への過剰な自信による無理がたたって、帰宅時には体力も気力も使い果たしぐったり鬱状態。後日、姉から訃報を聞き、私の思い浮かぶ範囲で父と親しくお世話になった方々に連絡したものの、体調回復の兆しは見えず、やむなく法要と納骨は中止・延期とした次第。当日までに体調が良くなる見込みがなかったことや、倅や叔父・叔母のアドバイスもありそう判断した。
 しかし、その後いつまで経っても鬱が深く体調が戻らない。僧侶の手配や墓所の予約など、1ヵ月先の体調が見込めるようになったのは、年が明け2月も終わる頃。体調云々よりも、私自身が膵炎で入院したことにより切迫感が強まったと言うべきか。
 そして昨日、骨片となった父をやっと母が眠る墓へと導けた。
 墓所へ行く前、同じ場所に10年以上住んだことのない両親が人生最後に18年も暮らした愛着ある団地に立ち寄ったところ、集会所で「お別れの会」が用意されていて、多くの方が来られたことには正直驚かされた。
 生前、父はしつこいほどに言っていた。
「わしが死んだら、葬式は団地の集会所でやれ。喪主はお母ちゃんやが、葬儀はハルオが仕切れ」
 と。
 結局、葬儀は行えなかったが、葬儀とは異なる、より良い形で父の希望が叶えられた。私の状況を察し動いて下さった団地や近所の方々には感謝するばかり。彼岸へ渡った父は、きっと喜んでいるだろう。

区切りの日-残ル半分ノ役目ヲ終ヘマシタ。20170420-01
▲助手席に乗せた「父」(遺骨、位牌、遺影)に、愛した団地を見せながら、お世話になった方々に挨拶出来ればと思っていただけに、集会所が用意されていたのは驚きだった。急いで「父」と供物を祭壇へ。ご尽力ならびにお集まり戴いた皆様に心より感謝。遺影の笑顔がいつになく嬉しそうに見える。



 ずっしりした父の骨壺は墓標の下に納められ、母の骨壺と仲良く並んだ。60年連れ添った夫婦が、姿と場所を変え、再び一つ屋根の下となる。
 予定から半年以上遅れて、やっと親の子としての役目を終えることが出来、安堵感と達成感があるはずなのに、なぜか私の体調は下降線。このところ冬の空気と初夏の陽射しというアンバランスな天気が続いているから・・・とでもしておこうか。

区切りの日-残ル半分ノ役目ヲ終ヘマシタ。20170420-02
▲墓所にて。父との会話を思い出しながら選んだ供物は、沖縄赴任時代から大事にしていた飲みかけのスコッチ、ビール、地元商店街の美味しいパン、杏仁豆腐、エクレア、鳩サブレ。遺影の前には死亡叙勲で授与された瑞宝双光章。ノンキャリの父は、ステイタスに憧れていたからなぁ。

2017-03-27

ひと区切り。

 まだ背中に痛みが残るものの、お陰様で体調はほぼ恢復。無理をせず自分のペースで日常を取り戻し始めている。

 先週の月曜日は、母の一周忌。経済的に厳しいのは相変わらずだが、いつもより多めに花を用意して墓参り。あの甚だしいドタバタから、もう1年か・・・。
 昨年末までに搬入した原木の処理がすべて終わり、屋としては次のサイクルに入った。まずは、傷んだ小屋の補修あるいは解体して作り替え。急ぐ必要はないから、のんびりやろう。来客対応も無難にこなせているし。

ひと区切り。20170327-01
▲カシのを小屋に収めながらパチリ。これで今シーズンに入荷した原木の処理が完了。例年なら、今頃は1~3月に伐採した原木処理に追われているのだが、緊急入院騒動もあり今年は異なる。

2016-11-24

喪中葉書。

 先週、11月に入って3枚目の喪中葉書が届いた。文面から、故人を偲ぶご遺族のお気持ちが伝わって来る。そうか、もうそういう時期なのか…。

 3月に母が、8月に父が死去した私は、喪中葉書を出す立場にある。しかし、鬱周期から抜け出せず立冬を過ぎてなお、喪中葉書を用意する気になれない。

 父の交友関係は広く、生前「毎年400~500枚の年賀状を出している」と語っていたものの、誰とやりとりしていたか殆ど把握していないし、ここ約1年のドタバタで把握する余裕もなかった。父が住み慣れた神奈川を離れ姉の元で余生を過ごすと決めた際、手紙も含めて身の回り品は姉に送ったため、今更把握することも難しい。
 母の年賀状は、おそらく30通前後。「捨てられない」性格だったため、多く残された遺品の中から父宛も含め直近の年賀状を発掘するには時間と労力が要る。
 そして私は、精神的な異変を自覚して以降、十数年も年賀状を出していない。

 ちなみに父宛の郵便物は姉の自宅へ、母宛の郵便物は拙宅へ転送されるようになっている。年が明け両親宛の年賀状が来たら、差出人様が健康でおられることを祝いつつ、鬼籍となったと伝える返信を書くことになろう。

 以下は、喪中葉書にも使えるように書いた文章で、諸事情から葉書を出せない代わりとして、ここに記します。

<喪中につき新年の挨拶を失礼致します>

 本年3月20日に母・菰田啓子が、8月10日に父・菰田淳郷が他界しました。母85年8ヵ月、父86年2ヵ月の生涯でした。
 大恋愛から夫婦となった両親は、昨年11月に60回目の結婚記念日を迎え、そして仲良く半年と置かずに彼岸へと渉りました。昭和5年生まれの両親は、ともに厳しいながらも愉しさを感じられる人生を過ごし、命を全うしました。
 両親へのご厚情に心からの深謝とともに、皆様が息災でおられることを祈念しております。

菰田晴雄

2016-10-14

徐々に。

 まだまだ不安定ではあるものの、体調は徐々に回復して来ている。
 昨日は何ヵ月ぶりかで薪に関する作業を再開。しかし、長く「自宅入院」状態だった私の体力はガタ落ち状態にあり、半日ちょっとしか気力を維持出来なかった。トホホのホ。

徐々に。20161014-01
▲薪割り機を用い仲間と私、3人足で作業したが、最も楽なポジションにいる親方役(私)の気力が最初に落ちた。思えば、以前はこれ以上の作業を1人でこなしていたのに…。


 ま、それでも少しは前に進んでいるのだとポジティブに考えよう。作業可能な時間が増えれば、腹部に蓄えられた脂肪が減り、衰えた筋力も戻ると思うのだが…、甘いかな?

2016-09-22

10年。

 去る9月13日で、当欄は満10年を迎えた。
 始めた時は深く考えていなかったが、継続出来れば何かしら変化があるだろうと根拠のない自信もあった。10年前と比較して更新頻度がすっかり落ちでしまったが、当時と今とでは、時間的余裕に大きな差がある。様々な仕事に携わる中で、書きたくても書けない内容も多くなった。それに、この10年で確実に老化した。
 10年と言えば、長いようで短いし、短いようで長い。とりわけこの1年に全てが集約されていたようにも思える。両親の危機を知り必死に元気づけたが、3月に母が、8月に父が他界し、厄介な病気を抱える私にとっては、最大の理解者を失った。
 ただし、10年という歳月は伊達ではない。自分なりに様々な体験をし、今日を生きている。新しい顧客も増えた。この1年で発症以来最大級の躁と最悪の鬱が現れてしまったが、それらを乗り越える術も経験として学んだ。
 10年前には10年後を予想出来なかったとのと同様に、今後もどう変化するか分からない。もう若くはないことを自覚し、両親を供養しながら、これからのことはゆっくり考えるとしよう。休むことも仕事のうち。焦ったり怒ったところで、何も得られない。

10年。 20160916-01
▲彼岸花が咲き今年最後の草刈りが終われば銀杏の季節。大粒で、多い時は買い物籠1杯分以上収穫出来る。とても食べきれないので、両親がお世話になった方々へ送る予定。

2016-08-13

父、死す。

 発症以来最悪の体調で伏せっていますが、遅まきながら報告します。
 去る平成28年8月10日0645時、父・菰田淳郷が入院先である高知県内の病院にて息を引き取りました、。86年2ヵ月の生涯でした。そうか、とうとう力尽きたか…。

▲親、子、孫の男3代で飲むことの夢に描いていた父。偶然もあって、それが叶った。
父、死す。20160814-01
(平成27年10月)。

父、死す。20160814-02
▲ ふわふわした毛糸のセーターが欲しいとの要望を受け。私が用意した中の1枚を父はとても気に入っていた。「こげなセータば、一度着てみたかったい」。
(平成27年12月)。


 国家公務員時代の前半20年はは第7管区所属の海上保安官として命がけで働き、航空局に異動した後半は、北は北海道から南は沖縄まで任地を変える激動の日々で、退官後は民間企業に再就職して働きながら、地元の老人会を束ねたりNPO法人を立ち上げたりと、忙しくしていなければ気が済まないような父でした。
 生前は、想像もつかないほど多くの方々のお世話やご厄介になったことでしょう。この場を借りて、長男の私からお礼申し上げます。
 ありがとうございました。
 既に高知で通夜と告別式を済ませ骨片となった父は、近日中に私の元に帰って来ます。四十九日法要と納骨は、母が眠る神奈川県相模原市の墓所にて行う予定です。

 | HOME |  »

CALENDAR

MONTHLY

CATEGORIES

PROFILE

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

OTHERS