両親の生活が危機的状況にあると知ったのは、昨年9月中旬のこと。以来、頭の中には「孝行したい時に親はなし」の一言が常駐していた。今やらずして、いつやれるのか?
だからこそ、可能な限りの時間を費やし、自分なりに考えられる範囲で、自分に出来る、ひょとしたら自分にしか出来ない孝行に努めて来た、、、つもりでいる。(註:当欄平成27年10月7日付記事参照)
あの時点では、父の越年は困難で母は短くともあと5年は大丈夫と判断したが、愚かながらに自分なりの「孝行」がどう作用するかを視野に入れていなかった。
今日は、他界した母の四十九日で、遺骨はヤモメ暮らしのカオスから父3:母7(推測値)の意志で用意されていた墓へ引っ越し。親の子として役目の半分を終えたと思える一方、残る半分も不明ながら期限が迫っているであろう。
母の死が目前となった時点から、人の死に疎かった私の相談を快諾してもらい、葬儀、納骨に至るまでお世話になったのは、以前に当欄にて画像を掲載した
ジープJ3(ジェイサン)を愛機とするお坊さん・
菱川秀美氏。

▲「
J3(じぇいさん)と坊さん その2」。法衣で
J3を操るお坊さん・
菱川氏。颯爽と乗りこなせば、
ジープは着衣を選ばない。
縁は異なもの乙なもの。不思議なもので、今日は
CCV誌に毒されていた
菱川氏が愛機と出会って15年記念日。そして今日までなら、私が死んでも位牌の文字は享年(行年)51歳。撓み継ぎ手となったのは、
ジープJ3なる機械と
CCVなる冊子であり、故・
石川雄一氏や故・
笠原俊孝氏でもある。
話が揺れてしまったが、いずれにしても今日が一つの区切り。まさか半年後に母が死ぬとは考えられなかったとはいえ、急展開する状況への即応と孝行は充分出来たと信じている。

▲「千の風になって」と刻まれた墓標。歌好きだった母がこの墓を建てたと聞いた時、流行(はやり)を容れるのはいかがなものかと思ったが、過ぎてしまえば悪くないと感じてしまう。自分が建てた墓に入れた母は満足していているであろうし、子としては、そこに導けたことで納得する。花には疎いので墓場にあつらえてもらい、供物は死を目前に母が強く望んでいた牛乳、納豆、ピーナッツ。美味しいちゃんぽんまでは用意出来なかった。釈尼啓穏信女(註:釈は変換不能・つくりは「西」と「幸」)、俗名・
菰田啓子の遺骨ここに眠る。
明日からは、また山士
薪屋としての日常が始まる。始めなければ、叱られる。「あーたくさ、仕事ばせんといかんがね。その前に線香ば忘れんといて」。